本能寺の変
本能寺の変は、日本の歴史上も最も大きなミステリーのひとつであり、歴史談義の際はいつも取り上げられるものです。
私も歴史好きの例にもれず、この大事件については、興味を持っており、いろいろな本を読んできました。
諸説入り乱れていますが、出尽くした感もあるので、ちょっと整理して私見を述べてみたいと思います。
あまりにも荒唐無稽な説は別として、本能寺も変についての諸説は以下のようなものがあります。
A 謀略説(陰謀説・黒幕説)
(1)足利義昭黒幕説(鞆幕府説など)
(2)朝廷黒幕説(暦問題・三職推任問題・信長神格化危惧説など)
(3)イエズス会黒幕説(南欧勢力実質支配説)
(4)羽柴秀吉黒幕説(結果的に一番利益を得た説)
(5)徳川家康黒幕説(天海僧正=光秀説)
(6)織田信長黒幕説(自作自演説)
(7)織田信長黒幕失敗説(家康討ちor朝廷討ちの罠に自ら嵌った説)
(8)細川藤孝黒幕説(藤孝の家老松井康之の陰謀説)
(9)堺の豪商黒幕説(千利休黒幕説など)
(10)本願寺教如黒幕説
(11)濃姫黒幕説(光秀-濃姫の従兄弟説or恋仲説)
(12)毛利輝元黒幕説(小早川隆景説もあり)
(13)長曾我部元親黒幕説
(14)島津氏関与説
(15)複合黒幕説(反信長神聖同盟説など)
B 怨恨説(いじめられ説)
C 危機感説(精神状態不安説)
(1)焦慮説(粛清不安or将来悲観or年齢からの焦慮説など)
(2)性格不一致説
(3)精神疾患説
D 政策路線相違説
(1)四国征伐回避説 (斎藤利三主導説・秀吉との四国路線対立説など)
(2)信長悪政非道阻止説
(3)信長自己神格化阻止説
(4)光秀旧制度防衛説
E 野望説(複合説もあり)
Aの謀略説(陰謀説・黒幕説)は、歴史ミステリーとしては格好の事件だけに、まさに百花争鳴です。もっとも、こうした説の主軸にあるのは、歴史は影の人物によって動かされるとする陰謀史観であり、事件を裏があるとして深読みしすぎるきらいがあります。
謀略説には、やはりどこかに無理があります。先に結論があり、そのための論理の飛躍や強引な解釈が多いです。
A(1)と(2)は、昔から有力とされているものです。
しかし、(1)については、すでに足利義昭の影響力は衰えており黒幕として活躍するほどの力はありません。毛利氏を頼っている義昭が、その毛利氏を蚊帳の外において暗躍できるとも考えられません。
光秀はすでに、天正元年の段階で義昭を見捨てています。いまさら、義昭に忠義を尽くすなどという考え方は無理です。足利将軍の権威などがすでに何も無いのは、当時誰もが承知していることでした。
私は、足利義昭という人物が、ドラマなどで演じられているほど暗愚な人物とは思いませんが、将軍として、裏で種々けしかけることはできても、それが大きな力になり得た時代は終わっています。
(2)については、朝廷と信長の関係は、実際には敵対していたわけではなく、朝廷側に信長を謀殺する理由がありません。
朝廷と信長の間にあった若干の懸案を誇大に評価したとしても、大きな対立などと言えるものではありません。公家にとっても、信長は気前の良いスポンサーであり、公家側がすり寄っていたというのが実情です。
さらに、明智光秀が本能寺の変前後に、綸旨や令旨を得た形跡もありません。個人的な光秀と公家との関係はあったでしょうが、それだけでは、クーデターを起こす主原因にはなり得ません。
A(3)~(15)の説は、ミステリー話としては面白いものの、歴史的な考証に耐えられるものではありません。個々には詳説しませんが、謀略説を詳しく論破したものとして、藤本正行・鈴木眞哉『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』(2006年)という本があります。
Bの怨恨説は、昔は主流の説でしたが、高柳光寿氏が『明智光秀』(1958年)で詳細に論破してから、近年は勢いがありません。
怨恨説の原因とされる個別の事例は、江戸時代以降に創作された講談や俗書によるところが多く、明確な証拠のあるものは、ほとんど無いのです。
そこで、近年、形を変えた怨恨説として出てきたものが、Cの危機感説です。これは、様々な原因で明智光秀が危機感を持ち、精神状態が不安定になったとするものですが、明智光秀の本当の心情を推測するのは難しく、実証的な証拠を上げることは困難です。むしろ、不安定な精神状態では、あのようなクーデターを実行できないと考えるのが自然です。
心理的にやぶれかぶれになって馬鹿な暴挙に出たとするのも、歴史を後から解釈する結果論です。
焦慮説の中には、自分が信長に粛清されると考えたという説もあります。確かに佐久間信盛・林秀貞・安藤守就・丹羽氏勝といった重臣が大量追放されているのは事実です。しかし、光秀は、旧来の能力の無い重臣ではなく、羽柴秀吉や滝川一益とともに、信長に随身してから一挙に出世の階段を駆け上がり、その能力を信長に高く買われていた者です。自分が粛清されると感じていたとは思えません。
ただ、最前線で活躍している羽柴秀吉や滝川一益らにライバル意識はあったでしょうから、心情的には複雑な思いが生起していた可能性は捨てきれません。とはいえ、それが主因で信長を倒す行動には出ないでしょう。それだけでは、あまりにもリスクが大きすぎます。
C(1)の焦慮説は、考慮に値しますが、あくまで従たる要因としての心理的可能性に留まると思います。
怨恨説・焦慮説は、光秀が精神的に追いつめられて、ネガティブな要因により突き動かされたとします。
しかし、明智光秀は、怨恨説が前提としている精神的に弱い小心者であったのではありません。豪胆で積極的であり、つわもの揃いの信長配下でも優秀であったのです。だからこそ、生き馬の目を抜く戦国時代にのし上がり、信長配下の武将の中でもトップクラスの地位を築いてきたのです。
私は、光秀は、むしろポジティブな動機により、行動を起こしたと考えます。
Dの政策路線相違説は、最近、論者の多い説です。
この中で検討に値するのは、D(1)の四国征伐回避説です。
四国については、明智光秀臣下の斎藤利三が長宗我部元親の親戚であることから、元親は光秀を通じて、信長との友好関係にありました。しかし、信長は路線を変更し、長宗我部氏と対立する阿波の三好一族を支援することになり、長宗我部元親へ土佐国・阿波半国のみの領有と上洛を命じましたが、元親はこれを拒否しました。そこで、神戸信孝(信長の三男)を総大将として四国征伐を行うことになったのです。
こうなると、長宗我部氏を説得していた明智光秀は四国戦略から外されてしまうことになります。事実、光秀は四国征伐のメンバーではなく、秀吉を支援する対毛利戦線に参加することを命じられます。
問題は、この四国征伐変更が、光秀を謀反に駆り立てるだけの原因となるかという点です。
以前に荒木村重が信長に反逆したとき、明智光秀は躊躇無く攝津に攻め込んでいます。荒木村重の嫡男である荒木村次の正室は、明智光秀の娘です。部下の斎藤利三の親戚のほうを大切にするというのは無理がある解釈です。
長宗我部元親は、自ら説得を拒否したのであり、光秀に原因があったのではありません。
説得が不調に終ったことで、光秀に、忸怩たる思いはあったかも知れませんが、路線の変更は戦国のならい。ある意味よくあることなのです。これをもって、本能寺の変の主因とするだけの力があるとは思えません。
さて、最後のEの野望説です。
これは、古くて新しい説です。光秀が単独犯で積極的に天下を取ろうとしたのであり、密かに胸に秘めていた野望を実現するチャンスが、うまく巡ってきた故に、決行したとするものです。
確かに、有力な軍事力を持つ信長配下の諸将は、遠方各地の最前線で戦っており、徳川家康は堺で遊興中です。
そこへ、信長が安土城を出て京都本能寺に入ることになったのです。さらに、信長の嫡男で後継者である岐阜の織田信忠が急遽、堺訪問をやめ、京に入ることになりました。
織田信忠は、尾張美濃を支配し、武田氏を滅ぼした戦功もあり有能だったと伝えられます。たとえ信長を倒したとしても、信忠がいるかぎり、織田家には求心力があり、反明智勢力がそこに結集するのは間違いありません。
ところが、今、信長と信忠を一挙に葬るチャンスが偶然訪れたのです。
そして、急造で寄せ集めの四国征伐の軍勢は大阪にあり、京都周辺には明智光秀の軍勢しかありません。しかも、光秀は毛利征伐を命じられており、そのための出陣なので、京都周辺で大軍を動かしても、怪しまれることはありません。
このような、機会は、二度と訪れることはないでしょう。野望を抱いた者なら、ここで謀叛心が湧いてきたとしても不思議がありません。
亀山城出陣を前にして、愛宕権現の連歌会で光秀が詠んだ、「時は今 天が下知る 五月哉」は、通説どおり光秀の決意が固まった発露であると見てよいと考えます。
以上のように、私は、基本的には光秀の「野望説」をとります。
それは、信長・信忠が、光秀の謀叛を全く予想しておらず、用心していなかったことからも示されています。信長と光秀の間に、それまで、表面化するようなの大きな軋轢があったとは考えられないのです。
C(1)の焦慮説や、D(1)の四国征伐回避説の要因が若干あったことは否定しません。しかし、それらは、深く光秀の胸に沈潜していた可能性としてのものであり、あくまで野望を後押しする従たる小さな要因にすぎません。主たる原因は、光秀の天下を狙った大きな野望なのです。光秀なりの天下取りの勝算があったからこそ、決行したのです。
最後に余談を(笑)
確かに光秀のクーデターは結果的に失敗しました。しかし、秀吉の中国大返しが迅速に行われなかったら果たしてどうなったかは分かりません。筒井順慶、高山右近、細川藤孝、中川清秀ら近畿勢が光秀側に一斉になびけば、ひょっとして明智幕府が成立して、本能寺の変は、神君の正義のクーデターとして後世称揚されたやもしれません。光秀の野望が成就する可能性は、事件発生当時は40%くらいあったのではないでしょうか。光秀はハイリスクハイリターンに賭けて、敗れたのです。
歴史は常に後講釈・結果論になりがちです。事件その時の真の事情と、後世の歴史的解釈は異なる場合が多々あります。
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