歴史

2009年9月13日 (日)

本能寺の変

本能寺の変は、日本の歴史上も最も大きなミステリーのひとつであり、歴史談義の際はいつも取り上げられるものです。
私も歴史好きの例にもれず、この大事件については、興味を持っており、いろいろな本を読んできました。
諸説入り乱れていますが、出尽くした感もあるので、ちょっと整理して私見を述べてみたいと思います。
あまりにも荒唐無稽な説は別として、本能寺も変についての諸説は以下のようなものがあります。

A 謀略説(陰謀説・黒幕説)
(1)足利義昭黒幕説(鞆幕府説など)
(2)朝廷黒幕説(暦問題・三職推任問題・信長神格化危惧説など)
(3)イエズス会黒幕説(南欧勢力実質支配説)
(4)羽柴秀吉黒幕説(結果的に一番利益を得た説)
(5)徳川家康黒幕説(天海僧正=光秀説)
(6)織田信長黒幕説(自作自演説)
(7)織田信長黒幕失敗説(家康討ちor朝廷討ちの罠に自ら嵌った説)
(8)細川藤孝黒幕説(藤孝の家老松井康之の陰謀説)
(9)堺の豪商黒幕説(千利休黒幕説など)
(10)本願寺教如黒幕説
(11)濃姫黒幕説(光秀-濃姫の従兄弟説or恋仲説)
(12)毛利輝元黒幕説(小早川隆景説もあり)
(13)長曾我部元親黒幕説
(14)島津氏関与説
(15)複合黒幕説(反信長神聖同盟説など)

B 怨恨説(いじめられ説)

C 危機感説(精神状態不安説)
(1)焦慮説(粛清不安or将来悲観or年齢からの焦慮説など)
(2)性格不一致説
(3)精神疾患説

D 政策路線相違説
(1)四国征伐回避説 (斎藤利三主導説・秀吉との四国路線対立説など)
(2)信長悪政非道阻止説
(3)信長自己神格化阻止説
(4)光秀旧制度防衛説

E 野望説(複合説もあり)

Aの謀略説(陰謀説・黒幕説)は、歴史ミステリーとしては格好の事件だけに、まさに百花争鳴です。もっとも、こうした説の主軸にあるのは、歴史は影の人物によって動かされるとする陰謀史観であり、事件を裏があるとして深読みしすぎるきらいがあります。
謀略説には、やはりどこかに無理があります。先に結論があり、そのための論理の飛躍や強引な解釈が多いです。

A(1)と(2)は、昔から有力とされているものです。

しかし、(1)については、すでに足利義昭の影響力は衰えており黒幕として活躍するほどの力はありません。毛利氏を頼っている義昭が、その毛利氏を蚊帳の外において暗躍できるとも考えられません。
光秀はすでに、天正元年の段階で義昭を見捨てています。いまさら、義昭に忠義を尽くすなどという考え方は無理です。足利将軍の権威などがすでに何も無いのは、当時誰もが承知していることでした。
私は、足利義昭という人物が、ドラマなどで演じられているほど暗愚な人物とは思いませんが、将軍として、裏で種々けしかけることはできても、それが大きな力になり得た時代は終わっています。

(2)については、朝廷と信長の関係は、実際には敵対していたわけではなく、朝廷側に信長を謀殺する理由がありません。
朝廷と信長の間にあった若干の懸案を誇大に評価したとしても、大きな対立などと言えるものではありません。公家にとっても、信長は気前の良いスポンサーであり、公家側がすり寄っていたというのが実情です。
さらに、明智光秀が本能寺の変前後に、綸旨や令旨を得た形跡もありません。個人的な光秀と公家との関係はあったでしょうが、それだけでは、クーデターを起こす主原因にはなり得ません。

A(3)~(15)の説は、ミステリー話としては面白いものの、歴史的な考証に耐えられるものではありません。個々には詳説しませんが、謀略説を詳しく論破したものとして、藤本正行・鈴木眞哉『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』(2006年)という本があります。

Bの怨恨説は、昔は主流の説でしたが、高柳光寿氏が『明智光秀』(1958年)で詳細に論破してから、近年は勢いがありません。
怨恨説の原因とされる個別の事例は、江戸時代以降に創作された講談や俗書によるところが多く、明確な証拠のあるものは、ほとんど無いのです。

そこで、近年、形を変えた怨恨説として出てきたものが、Cの危機感説です。これは、様々な原因で明智光秀が危機感を持ち、精神状態が不安定になったとするものですが、明智光秀の本当の心情を推測するのは難しく、実証的な証拠を上げることは困難です。むしろ、不安定な精神状態では、あのようなクーデターを実行できないと考えるのが自然です。
心理的にやぶれかぶれになって馬鹿な暴挙に出たとするのも、歴史を後から解釈する結果論です。

焦慮説の中には、自分が信長に粛清されると考えたという説もあります。確かに佐久間信盛・林秀貞・安藤守就・丹羽氏勝といった重臣が大量追放されているのは事実です。しかし、光秀は、旧来の能力の無い重臣ではなく、羽柴秀吉や滝川一益とともに、信長に随身してから一挙に出世の階段を駆け上がり、その能力を信長に高く買われていた者です。自分が粛清されると感じていたとは思えません。
ただ、最前線で活躍している羽柴秀吉や滝川一益らにライバル意識はあったでしょうから、心情的には複雑な思いが生起していた可能性は捨てきれません。とはいえ、それが主因で信長を倒す行動には出ないでしょう。それだけでは、あまりにもリスクが大きすぎます。
C(1)の焦慮説は、考慮に値しますが、あくまで従たる要因としての心理的可能性に留まると思います。

怨恨説・焦慮説は、光秀が精神的に追いつめられて、ネガティブな要因により突き動かされたとします。
しかし、明智光秀は、怨恨説が前提としている精神的に弱い小心者であったのではありません。豪胆で積極的であり、つわもの揃いの信長配下でも優秀であったのです。だからこそ、生き馬の目を抜く戦国時代にのし上がり、信長配下の武将の中でもトップクラスの地位を築いてきたのです。
私は、光秀は、むしろポジティブな動機により、行動を起こしたと考えます。

Dの政策路線相違説は、最近、論者の多い説です。
この中で検討に値するのは、D(1)の四国征伐回避説です。
四国については、明智光秀臣下の斎藤利三が長宗我部元親の親戚であることから、元親は光秀を通じて、信長との友好関係にありました。しかし、信長は路線を変更し、長宗我部氏と対立する阿波の三好一族を支援することになり、長宗我部元親へ土佐国・阿波半国のみの領有と上洛を命じましたが、元親はこれを拒否しました。そこで、神戸信孝(信長の三男)を総大将として四国征伐を行うことになったのです。
こうなると、長宗我部氏を説得していた明智光秀は四国戦略から外されてしまうことになります。事実、光秀は四国征伐のメンバーではなく、秀吉を支援する対毛利戦線に参加することを命じられます。

問題は、この四国征伐変更が、光秀を謀反に駆り立てるだけの原因となるかという点です。
以前に荒木村重が信長に反逆したとき、明智光秀は躊躇無く攝津に攻め込んでいます。荒木村重の嫡男である荒木村次の正室は、明智光秀の娘です。部下の斎藤利三の親戚のほうを大切にするというのは無理がある解釈です。
長宗我部元親は、自ら説得を拒否したのであり、光秀に原因があったのではありません。
説得が不調に終ったことで、光秀に、忸怩たる思いはあったかも知れませんが、路線の変更は戦国のならい。ある意味よくあることなのです。これをもって、本能寺の変の主因とするだけの力があるとは思えません。

さて、最後のEの野望説です。
これは、古くて新しい説です。光秀が単独犯で積極的に天下を取ろうとしたのであり、密かに胸に秘めていた野望を実現するチャンスが、うまく巡ってきた故に、決行したとするものです。

確かに、有力な軍事力を持つ信長配下の諸将は、遠方各地の最前線で戦っており、徳川家康は堺で遊興中です。
そこへ、信長が安土城を出て京都本能寺に入ることになったのです。さらに、信長の嫡男で後継者である岐阜の織田信忠が急遽、堺訪問をやめ、京に入ることになりました。
織田信忠は、尾張美濃を支配し、武田氏を滅ぼした戦功もあり有能だったと伝えられます。たとえ信長を倒したとしても、信忠がいるかぎり、織田家には求心力があり、反明智勢力がそこに結集するのは間違いありません。

ところが、今、信長と信忠を一挙に葬るチャンスが偶然訪れたのです。
そして、急造で寄せ集めの四国征伐の軍勢は大阪にあり、京都周辺には明智光秀の軍勢しかありません。しかも、光秀は毛利征伐を命じられており、そのための出陣なので、京都周辺で大軍を動かしても、怪しまれることはありません。
このような、機会は、二度と訪れることはないでしょう。野望を抱いた者なら、ここで謀叛心が湧いてきたとしても不思議がありません。

亀山城出陣を前にして、愛宕権現の連歌会で光秀が詠んだ、「時は今 天が下知る 五月哉」は、通説どおり光秀の決意が固まった発露であると見てよいと考えます。

以上のように、私は、基本的には光秀の「野望説」をとります。
それは、信長・信忠が、光秀の謀叛を全く予想しておらず、用心していなかったことからも示されています。信長と光秀の間に、それまで、表面化するようなの大きな軋轢があったとは考えられないのです。

C(1)の焦慮説や、D(1)の四国征伐回避説の要因が若干あったことは否定しません。しかし、それらは、深く光秀の胸に沈潜していた可能性としてのものであり、あくまで野望を後押しする従たる小さな要因にすぎません。主たる原因は、光秀の天下を狙った大きな野望なのです。光秀なりの天下取りの勝算があったからこそ、決行したのです。

最後に余談を(笑)
確かに光秀のクーデターは結果的に失敗しました。しかし、秀吉の中国大返しが迅速に行われなかったら果たしてどうなったかは分かりません。筒井順慶、高山右近、細川藤孝、中川清秀ら近畿勢が光秀側に一斉になびけば、ひょっとして明智幕府が成立して、本能寺の変は、神君の正義のクーデターとして後世称揚されたやもしれません。光秀の野望が成就する可能性は、事件発生当時は40%くらいあったのではないでしょうか。光秀はハイリスクハイリターンに賭けて、敗れたのです。
歴史は常に後講釈・結果論になりがちです。事件その時の真の事情と、後世の歴史的解釈は異なる場合が多々あります。

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2009年7月19日 (日)

卑弥呼の墓

古代史ミステリーというのも非常に面白いテーマですね。
私も専門外ですが、遺跡が結構好きなのと、古墳が身近に見られるので、趣味としていろいろ本を読んで来ました。
中でも邪馬台国論争というのは興味深く、若き日から何冊本を読んだか分かりません。
ただ、どの論者も、論理の飛躍が大きくて、なかなか説得力に欠けるというのが、正直な感想でした。特に歴史文献系からアプローチする方の論法は、実証性が乏しく、妄想の類と思われるものもありました。あまり悪口は言いたくないので、具体的な指摘は避けますが、百家争鳴の割には、成果があまりないというのが実情でしょう。

私は、以前から、古墳の考古学的な分析の手法により、年代順序を確定させていけば、必ず卑弥呼の墓の確定も可能だと思っていました。
その点から見て、私が一番信用できるというか、考古学的見地をもとに論じられた著作として、推薦するのは、国立歴史民俗博物館名誉教授白石太一郎氏の『古墳とヤマト政権』(文春新書、1999年)です。
ここでは、古墳の歴史が考古学的分析の成果をもとに、見事に整理されており、非常に分かりやすく説明されています。なにより、論理が一貫しており、常識的ですが非常に信頼性があります。

ここで問題の三世紀中ごろの古墳の発生期から、四世紀中ごろにかけての巨大古墳がつぎのように造営順が整理されています。
(1)箸墓古墳(現倭迹迹日百襲姫陵)
(2)西殿塚古墳(現手白香皇女衾田陵)
(3)外山茶臼山古墳
(4)メスリ山古墳
(5)行灯山古墳(現祟神天皇陵)
(6)渋谷向山古墳(現景行天皇陵)
但し、(5)、(6)の前後関係は逆転する可能性あり。

重要なことは、これらの初期巨大古墳は、いずれも奈良盆地東南部、すなわち本来の「やまと」に営まれたことです。
そして、箸墓古墳については、「巨大な出現期の前方後円墳の被葬者が三輪山の神に仕える巫女であると伝えられていることは、きわめて興味深い。」と書かれています。
この、出現期の巨大古墳を生み出した政治秩序は、その後のヤマト政権の政治秩序そのものにほかならないとされています。

そして、箸墓古墳の築造年代を260年ごろとして、「箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性は決して少なくない」と結論づけられています。

2009年5月30日に、箸墓古墳の築造年代を西暦240-260年頃とする国立歴史民俗博物館春成秀爾名誉教授の研究成果が報告されました。卑弥呼の没年(248年頃)から、まさにピッタリです。
白石太一郎氏の説が大きく補強され、箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性は、さらに高まったといえるでしょう。

以下、私見です。

邪馬台国の時代に、「やまと」の地域に巨大古墳が出現した事実は、誰も否定することはできません。
中でも最も古い箸墓古墳は、孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)とされており、伝承・巫女的な、「やまとのひめみこ様」ともいうべき女性が葬られていることからも、卑弥呼の墓である蓋然性が高いと思います。
結局、邪馬台国も呼び名は「やまと(こく)」であり、卑弥呼も「ひめ(みこ)」と呼ぶのが一番自然です。やまとの国の、ひめみこ様のもとに統治されていた国が、ひめみこ様が死んだとき、巨大な墓を作ったという事実があったのです。

普通に考えればよいのです。本来の「やまと」は、現在の奈良平野の南東部付近の本大和とされる地域です。
まさに、全国からの土器などが発見され、邪馬台国の王都所在地ではないかと注目される纏向遺跡の存在する一帯であり、考古学的なデータとも全く矛盾しません。
そこに、三世紀中旬に、他を圧する巨大な古墳が突如出現したのです。それが、箸墓古墳です。

纏向石塚墳丘墓などの突出部と箸墓古墳の前方部との形状が類似していることや他の考古学的証拠から、箸墓古墳は、弥生時代の墳丘墓が、飛躍的に巨大化したものであることが確かめられました。
また、その後つくられる他の天皇陵クラスの古墳は三段築成が多いのに、箸墓古墳だけは、なんと五段築成(四段築成で、後円部に小円丘が載る)なのです!

被葬者の格付けという意味からも、三世紀中頃に、神格的ともいうべき、ものすごい古墳が突然つくられたのです。被葬者として考えられるのは、卑弥呼以外にないでしょう。私は、箸墓古墳こそ卑弥呼の墓であると確信しています。
広域の政治連合の最初の盟主であり、神格的な存在であった卑弥呼の墓を契機として、これ以降、大王級の首長は大きな古墳を造営することになります。
ここから、いわゆる、巨大古墳の時代がはじまるのです。

卑弥呼の死後、男王を立てたが治まらず、卑弥呼の親族で13歳の少女だった台与(壹與)が立てられたことになっています。
この台与の墓については、箸墓古墳につぐ古さで大王級の古墳とされる、西殿塚古墳(現手白香皇女衾田陵)があります。ただ、この西殿塚古墳は、現段階では、崇神天皇墓である可能性も捨て切れません。
『晋書』起居註に秦始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述があり、この女王が台与と考えられ、実在性は高いので、古墳の比定も非常に興味あるところですが、長くなりますのでまたの機会に論じたいと思います。

なお、男王としてヤマト政権の初期大王となったのが崇神天皇ではないかと考えられます。
倭迹迹日百襲姫命が登場する有名な「三輪山伝説」は、『日本書紀』崇神天皇10年の条にあるのです!
祟神天皇が巫女である倭迹迹日百襲姫命の教えを聞いて政事を行なっているという記述もあり、女性の巫女の神託と、男が政務を司る関係は、魏志倭人伝の女王と男弟の関係と一致します。
倭迹迹日百襲姫命は、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹であるとされており、この点からも、倭迹迹日百襲姫命として卑弥呼が伝承された可能性が高いと考えます。

また、崇神天皇の皇女に豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)があり、天照大神を笠縫邑(かさぬいのむら)に祀った初代斎宮とされています。天照大神には、先代の偉大な女王であった卑弥呼の性格が反映されているとも考えられ、それを祀った初代斎宮が台与であるのは説得力があります。
ということで、もし台与を「とよ」と読むのなら、豊鍬入姫命が台与に比定される可能性が高いです。(ただし、「いよ」と読む説も有力です。)

祟神天皇は、御間城入彦(みまきいりひこ)、又、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)、と称えられ、ヤマト政権の初期に輝いていた大王であると思われます。そして、現代の日本の学術上、実在の可能性が見込める初めての天皇であり、いわゆる三輪王朝の大王として、その周辺には、卑弥呼や台与に比定される女性もあり、限りなく興味深いですね。

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2007年9月17日 (月)

上杉謙信女性説

武田信玄の話が出たついでに、上杉謙信の話ですが、上杉謙信女性説という都市伝説?がありますね。他愛もない伝説だと思っていたら結構興味深いので、ひょっとして?と考えてしまいました。
女性説のいわれを並べてみます。
(1)謙信の死因について、「更年期障害による婦人病の一種」とされる「大虫」と記載されている文献がある。
(2)合戦中にも関わらず1ヶ月周期で腹痛を訴え、兵を引き部屋にひきこもったりしている。生理か?
(3)スペインの国王宛に書かれた手紙には「景勝の叔母」と記載されている。
(4)謙信の遺品の衣類を見てみると真っ赤であったり、男物とは思えない。
(5)当時、謙信のことを「男もおよばぬ大力無双」と歌った歌がある。
(6)生涯、妻妾を問わず、性的な関係では、女性を近づけなかった。
その他にも、上杉謙信の肖像画は江戸時代に作成されたもので、謙信を男にする必要があったため不自然にヒゲを生やした男の肖像画を描かせたのではないかという話もあります。
江戸時代になると、上杉家は外様大名ですし、もし上杉謙信が女であれば、徳川のやり方で、お家断絶となりますから、男性にしなけらばならないわけです。
(以上一部Wikipediaからそのまま引用させてもらいました。)
なかなか面白い説ですね。

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